世界のはて

『はてな非モテ論壇』の一角だった場所

成功や欲望を「たいしたことねーな」と実感できるようになることにこそ、成功体験の意味はあるのかもしれない

少し前、僕もとうとう29歳になったんですが、この歳くらいになると、流石に自分の人生に新しい可能性ってもんがなくなってきたなと、ヒシヒシと感じるわけです。
たとえば最近僕はDJの練習中なんですが、今更有名DJになってブイブイ言わすとか、絶対ありえませんから。そうすると、最初から変な夢持ったりせず、淡々と趣味としてこなすようになりますよね。まぁ現実的なんだけど、モチベーションもイマイチだし、自分の中の盛り上がりにも欠ける。そこには若いときと同じような燃え上がるような面白さや楽しさは、ない。
それになんていうかね。もう、見えちゃってるんですよ。たとえその「夢」を達成したとしても、自分がどれだけ楽しくて、どれだけ幸せになれるのかっていうことが。
僕のこれまでの人生で「成功体験」だったと自分で考えていることは、

  • スコアラーとして全一をとった。
  • ゲーム製作を志し、ゲーム開発会社にPGとして入社。
  • 脱オタして彼女もできて、普通にお洒落さんと呼ばれるくらいにはなれた。
  • ブロガーとして、中堅くらいの地位は得ることができた。


とこれくらい。どれも達成できて本当に嬉しかったし幸せだったんですけど、まぁなんというか……飽きるんですよね。全一にしろお洒落にしろブログにしろ、しばらくするとその状態が「普通」「日常」になってくる。童貞だったときの「初めてのセックス」の感動と、いまの僕がする「日常のセックス」の感動がぜんぜん違うのと同じように。
こういうことを繰り返していくと、たとえ僕が日本有数のDJになったりしても、たぶんしばらくすると飽きるんだろうなぁということが、容易に想像できてしまう。そうすると、若い頃みたいに無我夢中ってのは、なかなかできなくなってきますわな。
簡単に言うと、成功に飽きる。欲望に飽きる。つまり、人生に飽きる。若い頃みたいに無邪気に面白く生きるということが、なかなか難しくなってくる。
でも、こういう成功体験の積み重ねは決して無駄ではないと僕は思っていて。こうして「成功ってのはこんなもんなんだ。たいしたことねーな」と実感できるようになることにこそ、成功体験の意味はあるんじゃないかと。
成功体験を積み重ね、成功や欲望を相対化できるようになり、なんとなく人生に飽きてきたら、たぶんその人の人生は、よい意味でそこで一旦「終わり」なんですよ。でも、そうして人生が「終わって」こそ、人間は自分の成功や欲望に固執することなく、他人……子供や愛する人のために、親としての「第2の人生」を生きることができるようになるんじゃないかと思うんですよ。
そろそろ結婚を考えようかという年齢でこういう心境にたどり着けた僕の「第1の人生」は、決して悪いものではなかった。いまは、そう思います。