世界のはて

『はてな非モテ論壇』の一角だった場所

脱オタの困難さとは、ハビトゥス(規範システム)から抜け出すことの困難さそのものと見つけたり

ブルデューによれば、ハビトゥス(規範システム)は、「集団のすべての特性、およびその特性と他の集団の特性についての判断を生み出す生成原理」であり、その集団の成員に対して「道理にかなった慣習行動を生み出し、またこうして生み出された慣習行動に意味を与える知覚を生み出す」ものである。
このようにハビトゥスは、自己を外部から支える「生活様式として機能して」いるが、同時にそれは、生活様式を成り立たせている自己の慣習行動を統一し生成する原理であり、慣習行動を内発的で自発的なものとみなす自己の知覚や意識を組織化するものである。歴史的にみれば、あるいはグローバルな観点に立てば、偶発的で個別的な文化の文脈のなかで外的に整えられ、外的に表現されているにすぎない動作や価値判断や消費が、「意識の自然発生」とか「身体化された必然」という「幻想」に擦りかわる。
したがって、本来は文化習慣によって生みだされる「誤認」であるにもかかわらず、すなわち「頭のなかで作り上げられた秩序の承認」であるにもかかわらず、それを自然な認知とか身体の必然的な所産と思い込ませているハビトゥスの機能は、そのハビトゥスの成員が集団のそとに出ることも、そとからハビトゥスの集団のなかに入ることも、非常に困難にさせている。なぜなら、ハビトゥスは単に排他的に作用しているだけでなく、排他性に抗してその集団のなかに入ろうとする者に、あるいはそこから出ようとする者に、自分の知覚や身体認識を根底から翻すことを要請するからだ。
しかもハビトゥスは空間的な拡がりだけでなく、時系的な連続性をもつものなので----つまり幼児期より反復的になされる経験の蓄積を含摂しているので----知覚や身体認識の根本的な改変はそもそも不可能である。そのため、あるハビトゥスのなかに入ろうとする者や、そこから出ようとする者は、知覚や身体にふるわれるハビトゥスの「象徴的な暴力」のために、自己構築の不安定性を心的・身体的構造のなかに抱え込むことになる。
フェミニズム」 - 竹村和子 asin:400026432X 強調筆者

それなんて脱オタ?って思った(笑)
脱オタの困難さを思いっきり抽象的に語ったら、まさにこの文章そのものになるよなぁ。「オタク」というハビトゥスから、「一般人*1」というハビトゥスへ移行することの困難さ。脱オタの困難とは、ハビトゥスから抜け出ることの困難そのものと見つけたり。しかもなんか、「根本的な改変はそもそも不可能である」とか言われちゃってるし(苦笑)脱オタ経験者である僕が、「規範からの抑圧」に敏感なのには、こういう背景があるんだろうな*2
ハビトゥスについて勉強すれば、脱オタについて何か新しい発見が得られるかもわからんね、と思ったので忘れないようにメモ。ブルデュー読めばいいのかな?
ちなみにこの本はフェミニズムについての本なのですが、前半のフロイトとかラカンとかファルスとかロゴス中心主義とか言ってるあたり、全然わけがわかりません。原本読まないとダメなのかしら。


フェミニズム (思考のフロンティア)

フェミニズム (思考のフロンティア)

*1:他に良い言葉がないので一応そう言っておく。

*2:http://a-pure-heart.cocolog-nifty.com/2_0/2006/07/post_95cb.htmlとか。