自己は、それ自体を人生の目的とするには、あまりにも無価値すぎるのかもしれない
「人ひとりの命は、地球よりも重い」という言葉がある。
「んなわけねーだろJKw 現在地球上には、60億の人間が暮らしている。もし地球が無くなったら、60億人が死ぬわけだ。てことは単純に考えて、地球の重さは人ひとりの命の重さの60億倍!異物は消毒だァひゃっハー!」
という突っ込みを入れることは容易いが、僕はこの言葉には「一人の主観から見れば」という前置きが着くのだと解釈している。客観的に見れば、人ひとりの命など軽いものだが、人ひとりの主観から見れば、自分の命はこの世界の全てであり、これ以上に重いものはない*1。
この自意識と客観の齟齬は、時に人を無力感に陥れる。自分の存在の小ささ。自分などいなくても、世界は回る。自分にとってはこの上なく大切だと感じられる事や物や思い出も、世界や他者から見ればゴミのようなもの。
この感覚は、自分を省みたとき、なおさら強く感じられる。自分は、他者をどれだけ理解できているというのか。理解しようとしているのか。理解などできるのか。「あの人」が大切にしている「あの価値」を、「あの人」と同じように僕も感じることなどできはしない。
そして僕にとっての「あの人」の価値は、「僕自身」以上に価値あるモノになることは決してない。僕にとっては、自分自身の人生が、一番大切なのだから。僕と「あの人」の人生は、重なってはいないのだから。他者である僕と「あの人」がお互いに与え合う影響など、たかが知れているのだから。
そう考えたとき、自分を理解して欲しいと他者に要求することは、そのこと自体が酷く傲慢な要求だと感じられた。「あの人」もまた、同じように僕のことを見ているのだから。しかし同時に、僕にとっての価値あるモノが、他者にとってはゴミのようなものであるという現実に、強い虚しさを覚えた。僕が生きていることの意味の、なんと小さなことか!
もっと強い、「生きる意味」が欲しい。
そう考えたとき、ふと、家族を持ってみたくなった。
家族を持てば、僕には家族に対する責任が産まれることになる。自分の人生が、家族の人生に直結するようになる。もし僕が死ねば、家族が路頭に迷うことになるかも知れないという現実が、そこに産まれる。
そこには、僕が生きる「意味」が産まれる。ありきたりな言葉になってしまうが、「守るべきモノができ、自分の人生が、自分一人のものではなくなる」のだ。そしてその「守るべきモノ」は、僕の自意識と同じ程度には重く、「価値がある」*2。
自分独りを守るだけでは、あまりにも儚く弱すぎる「人生の意味」。だが、家族という他者の人生を背負ったとき、その人生は、その他者のぶんも含めた強い意味をもつことになるのではないだろうか。
人生は、自分のためだけに生きるにはあまりにも長く、自己は、それ自体を人生の目的とするには、あまりにも無価値すぎるのかもしれない。
【インスパイア元】
昨日、子供が生まれた。 - 琥珀色の戯言
僕は産まれてからこの31年、結婚願望は特になく、みんななぜ結婚していくのかよく解らなかったけれど、最近なんとなく、漠然と「結婚したいな」と考えることが増えてきたのだけれど、↑の記事を読んでその理由がなんとなく焦点を結んだ気がしたので、そのことについて書いてみた。
他の人たちが、僕と同じようなことを考えて結婚しているのかは知らない。ただ、僕にとっての結婚とは、「人生の意味を強めるためのもの」なのではないかと思う。人生を共同化することによって。