世界のはて

『はてな非モテ論壇』の一角だった場所

非モテとは何かについて、今更ながらお答えするよ

非モテ問題」は「コミュニケーションに対する劣等感問題」

非モテ」という言葉をはてなで知り「なんじゃそりゃー」と思いつつ様々なエントリを読んだり、とあるオフ会で実際に「非モテ」について語られる場面を見たりしました。でもイマイチぴんとこない。モテたいっていうより、誰かにきちっと好かれたい愛されたい人というふうに「非モテ」の人は見えるんだけど、でも単語は「モテ」なんだよね。

僕ははてなでは、「非モテ」について結構言及してきた自負があるので、お答えしてみようかな、と。

僕は20代中盤頃まで、「コミュニケーションに対する劣等感」に苦しんでいたんですよ。それは、「会話に参加できる話題が少ない」とか、「面白いジョークのひとつも言えない」とか、「友人といるといつもいじられキャラにされてしまい、そうしたコミュニケーション以外の方法が解らない」とか、「こんなだから友達もメチャクチャ少ない」といった、他人が聞いたら「なんだそんなこと」と思うような日常的なものだったんだけど、僕自身は自分のそんなところが心底嫌いで、劣等感を持っていて。

で、「コミュニケーションが下手」っていうことは、「異性とのコミュニケーションも下手」つまりは「非モテ」でもあるっていうことで*1。他の「非モテ」の人がどうかは知らないけど、僕にとっての「非モテ」っていうのは「コミュニケーション下手のひとつの症状」っていう位置づけなんですね。

だから、「非モテ」という単語単品で「モテVSモテない」みたいな図式で、「恋愛の話」として捉えられることには違和感がある。スクールカーストCランクには「非モテ」が多いだろうけれど、それだけでCランクを語るのは不適切、みたいな感じで、もっと大きなコミュニケーションの問題として「非モテ」は捉えられるべきだろう、と。

そういう意味で、えがちゃんの「非モテSNS」は、話を聞く限りでは「恋愛」だけに的を絞ったコンセプトのようなので、どうも乗れないんですけどね。

そんな感じで、僕が考える「非モテ問題」は、「コミュニケーションに対する劣等感問題」です。少し前までの非モテブームのとき、はてなで語られてきた「非モテ論」も、概ねその方向性だったと僕は思ってます。

ちなみに「非モテ」が感じている「劣等感」については、setofuumiさんの↓の記事が、よく書けていると思います。

ちなみに

僕自身は、若い頃に持っていた「コミュニケーションへの劣等感」は、今ではほとんど感じていません。これは、脱オタしてコミュニケーションスキルを上げたことも一因なのですが、どちらかというと自分が「リア充の真似をしても幸せになれないタイプ」の人間だと納得できたことが大きいです。

コミュニケーションに劣等感を持っていた頃、木になっている葡萄は「酸っぱい葡萄」だったけど、実際に食べてみたら「自分には合わない葡萄」だということが解り、あまり欲しくなくなった、という感じで。

結局、リア充的なコミュニケーションは、僕にはノリが合わないんですよね。それが納得できてから、リア充ノリの人にはそもそも近づかないようにし、コミュニケーションをとるときにも無理をせずマイペースに振舞うようにしたところ、コミュニケーションが非常に楽になりました。幸いなことに、マイペースに振舞っても僕と付き合ってくれる人たちも居るし、そういう人たち以外とは、別に付き合わなくてもいいだろう、と。

そもそも昔の自分は、今と比べてコミュニケーション下手だったうえ、「誰とでもすぐに打ち解けられるコミュニケーション強者」というかなり超人的なモノを理想とし、憧れていたので、その理想像と比べたら、自分に対して劣等感を感じるのは当たり前だったんですよ。でもそれって、世の中の「人気」を基準に、その価値観を内面化して理想像を思い描いていたんですよね。結局、外の価値観に振り回されていたわけです。

今の自分は、自分の「力量」や「相性」といったものを知り、それに合わせたコミュニケーションを行うことで、コミュニケーションに関しては、無理なく満足できる、自分に合った状態が保てていると感じています。

*1:実際、24歳まで1度も恋人が居たこともなく、童貞だった。