世界のはて

『はてな非モテ論壇』の一角だった場所

人間は社会の多様性にどこまで耐えられるのだろうか、みたいな

・「視線の暴力」に関する、なんとも歯切れの悪いエントリー

  1. 他者の視線を完全にコントロールすることは、誰にもできない。
  2. ゆえに、僕たちは「視線の暴力」の被害者にさせられる可能性からは、絶対に逃れられない(←前回の記事ではここまで)。
  3. これにプラスして、他者がどんな視線を望んでいるかを完全に知ることもまた、誰にもできない。
  4. ということは、僕たちは他者を「評価してしまった(視線を送ってしまった)」瞬間、「視線の暴力」の加害者となり得る可能性に捉えられてしまう(その視線が『暴力』となるかどうかは相手次第)。
  5. そして僕たちは、他者を「評価」しないということは、絶対にできない。なぜなら僕たちは、他者が(文字通り)眼に入った瞬間、無意識のうちに「第一印象」という名の評価を下してしまうから。
  6. ゆえに、僕たちは「視線の暴力」の加害者となってしまう可能性からもまた、絶対に逃れられない。
  7. つまり、僕たちは誰もがみな「視線の暴力」の被害者であり、同時に加害者でもあるわけだ。
  8. ホント、娑婆世界は地獄だぜ。

id:ululunさんのTBで、昔書いた↑の記事を読み返して、あーそんなこと書いたことあったなーと思い出した。で、コレ書いた後に本で知った「キャラ的人間関係」辺りの話と絡めて、追記的に思ったことがあったので書いてみる。

ここでいう「視線」が暴力となり、自分が加害者になる可能性っていうのは、社会の多様性が増すほどに、高まることになると思う。異なった価値観の者であるほど、相手が「視線」をどう解釈するか、こちら側から推測することが難しくなるから。

そうした状況の中でなお「加害者」であることを避けようと考えた場合、考えられるルートは2つあって、

  1. 他者を「タイプ」に分けて単純化し、処理し切れなくなった多様性を軽減させる → 自分と同じ「タイプ」の人間でコミュニティを作り、外部との接続を遮断する。
  2. 他者と関わることをやめる。


↑の1は、いわゆるスクールカーストにおけるの源になるもので、社会学者の森真一氏などが「キャラ的人間関係」とか「やさしい関係」とか呼んでいたりする例のアレ(詳細は→スクールカーストは、現代社会に浸透した「人格崇拝」と、そこから必然的に発生した「予防的やさしさ」が根っこになっていたんだよ!)。

2は、要は「行動しなければ誰も傷つけない」ということで、非モテ論が流行ってたときにしばしばテーマになっていたので覚えている人もいるんじゃないかと思う。

でまぁ、1にしろ2にしろ「複雑化して処理し切れなくなった社会を単純化しようとする」行動であるということは共通しているな、と思うのですよ。たぶん人間は、処理し切れない程の選択肢を与えられると何も行動を起こせなくなって*1、なんとか単純化して物事を捉えようとする意識が働くんだと思うんですね。

コレは、レストランのメニュー選びから化粧品やヒゲ剃り選び、PCアプリの使い勝手やTVゲームのゲーム性、更には「情報過多になったインターネットにおける情報絞込みツールとしてのはてブ」みたいな話まで、世の中のあらゆる場面で普通に起こっていることで、それと同じことが価値観が多様化した現代社会でのコミュニケーションにも現れているのだろうなと思う次第。

僕は社会の中の価値観は多様なほうが良いと思っているんだけど、人間の処理能力を超えた多様すぎる社会は、それはそれで今回書いたような別種の生きづらさや、その反動から来る他者への抑圧も生み出すところがあるんだろうなと思うので、いろいろ難しいですよね*2

*1:これが「2.他者と関わることをやめる」。

*2:なんか惑星開発委員会の宇野の人辺りが、「価値観の宙吊りに耐えろ」みたいなこと言い出しそうなエントリだな、今日のは。