「東京大学「80年代地下文化論」講義」をテンプレとして「おたく」を語ったときに見えてくるもの
- 「東京大学「80年代地下文化論」講義」の読み方
- 「テンプレ」とは、ある決まった「語り口」で、別の「テーマ」「価値観」を語るという手法。
- たとえば昔僕がやった「はぁちゅうコピペ脱オタバージョン」は、元になった「はあちゅう主義 - 小娘が何か言ってます」という記事の「語り口」で「脱オタ」というテーマを語ったモノだと言える。
- ここで宮沢章夫が「東京大学「80年代地下文化論」講義」で使っている「語り口」をそのままに、中心テーマを「ピテカン」から「おたく」に移してみると、どういったものが見えてくるか。この手法により、「ピテカン的なもの」と「おたく的なもの」の同じ部分と違う部分がハッキリするだろう。
- 上記手法から見えてきたもの
- 同じなのは、「共通の価値観を媒介とした閉鎖性」。
- 違うのは、「差異化ゲーム」への優越・劣等意識。
- 「ピテカン」は、勝手に自分達は「上」だと規定して、「おたく」に対して優越感を感じている。「おたく」はその逆。
- いま「勝手に」と書いたけれど、「ピテカン」が「上」だと勘違いできたことには、それなりの時代背景があったのだと思われる。
- 興味深いのは、その時代(80年代)に「ピテカン的なもの」が「差異化ゲーム」の文脈上で肯定されまくっていたらしいことと、その背景。
- たとえば「ネアカ/ネクラ」の二分法は、なぜ生まれてきたのか。
- 「スノッブ」というキーワード。
- ちなみに西部セゾングループの衰退は、「差異化ゲーム」そのものの価値が衰退していったことの表れだと思われる。
- 岡田斗司夫と本田透の差異化ゲーム戦略の違い
- 岡田斗司夫が「ぼくたちの洗脳社会」でやろうとしたことは、この80年代的構造を逆手にとり、おたくが「上」だと勝手に勘違いできるよう、「社会」を洗脳すりゃあいいじゃんということだった*1。
- そしていま、本田透がやっているのは、社会に関係なくオタクが勝手に勝利宣言し、自分たちは「上」だと勘違いできるよう、「自分」を洗脳しようということ。
- 「社会」を洗脳しようとする指向と、「自分」を洗脳しようとする指向の違いとはなにか?
- 岡田斗司夫は60年代安保闘争的「社会志向」、本田透は社会変革への夢が破れた後の70年代以後的「個人指向」とか言ってみる。
- あるいは「初期フェミニズム」と「クイア」の違いとか。
- 「シャカイ系」と「セカイ系」とか。
- 個人的には「差異化ゲームこそが、すっげーくだらなくね?」という方向に行って欲しい。村上隆が昔言ってたような「スーパーフラット」的なもんが理想だと思ってる。「ピテカン」も「おたく」も同じじゃんっていう。
……なんか主題がズレてきたので、とりあえずここまで。ゼビウスが半分「ピテカン的なるもの」に回収されて、その結果90年代に生まれたおたく内差異化ゲームについても、いろいろ考えたいなぁ。
*1:便器やアニメポスターを美術館に置いて、「芸術だ!」とかやるようなもんかなぁ?