世界のはて

『はてな非モテ論壇』の一角だった場所

「成熟」という名の妥協の正当化と、ネットみのもんたの「抑圧移譲」

自分の中の「やりたいこと」「思想」「こだわり」といったものと、現実的に社会から「やらないといけないこと」「やるべきこと」として求められる「規範」が食い違うということは、誰にでもある。けれども多くの人間は、「本意ではないけれど〜」と感じながらも、後者の「現実」を選ばざるを得ない。「労働」なんてものは、その最たる例だと思う。

人は、こうした「妥協」を繰り返しながら「大人」になっていく。それは、社会から「成熟」と呼ばれることもある。この名を与えられることによって、「大人」は自らの人生の選択に正当性を与えることができる。「あれは『妥協』ではないのだ」と。

人々の「妥協」は、社会が成り立っていく上で不可欠な要素。それに「成熟」という呼び名を与えることで正当化を図ることは、社会にとって必要なシステムなのだろう。

しかし、いくら社会から正当化されたとしても、個人に「妥協」の「痛み」は残る。そしてその「痛み」は時として、「成熟を拒否する者」への嫉妬や暴力、説教といった形で現れる。「俺が苦しんだのだから、同じようにお前も苦しめ」というわけだ。

こうした説教を通じ、「成熟した人間」は自らの正当性を確認し、優越感を得る。そして多くの場合、社会から「成熟」という名の正当性を与えられている本人は、それが嫉妬であることに気付かず、「正義」だと思い込んでいる。こうした心理メカニズムを、「抑圧移譲」と呼ぶ。

・抑圧移譲(よくあついじょう)
(ほぼ全文引用。読みづらいので、リンク先の原文に当たることを推奨)


あるところで抑圧を受けた者が、自分よりも立場や能力などに劣る弱者に対して、その抑圧を移譲すること。ごく簡単な例を挙げれば、腕っ節の強い奴にぶん殴られて、その屈辱・怒りを殴った当人に向かわせず、自分よりも弱そうな奴をぶん殴って晴らすことが挙げられる。
 だが、抑圧移譲とは「ムカついたからストレス解消」というような簡単なものではない。他者の優越によって揺らぐ自己の尊厳を保ち、正当性を確認するための、自己の存在を賭した悲痛な行為である。そのために、自己の優越や正当性を(より御しやすい)他者に認めさせる行為そのものである。
<中略>
さらに言えば、この行為は必ずしも当事者が「自分の受けている抑圧を移譲している」「弱者を支配蹂躙して満足を得ている」などという自覚を持っていないことが少なからずある。例えば、企業、軍隊や運動部など一定の成果を収めることを要求される集団においては、その成員に対して課せられるその抑圧が成員間で移譲されがちである。その形態としては(物理的であろうとなかろうと)あからさまな暴力として現れることもあるが、「自分よりも劣った仲間に対する注意・指導」という善意としての形で現れることもある。
その「注意・指導」がされる側にとって助けとなり、支えとなる場合は良好な協力関係と言うこともできるが、そうでない場合は攻撃行動となる。しかし本人が善意による行動と信じているためタチがわるい。実際には適切な成員の行動に対して、自己の発想・方法こそが唯一絶対の正答として相手の行動を否定し、自己の方法を強要する。
<中略>
しかし、抑圧の中で自己の精神を安定させるために他者に対する優越を希求し、優越を確認して自己の立つ瀬を確保するため、他者に影響を行使し続けようと欲すると、人間はしばしば自らがいつでもある人物・ある人間集団に対して優越を誇っており、いつでも自己の判断や行動、その方法が正しく適切で、それ以外はまったくもって間違っている、という感覚に溺れることがある。この抑圧下に於ける自己優越意識・自己正当意識が肥大化し、優越を示そうとする対象に対する行動が「指導」「協力」の域を脱したとき、それは抑圧移譲という暴力となる。
 同様に、国家や組織による抑圧移譲もまた、自己が「正当」ないし「正統」な行動をしているとして為されることがある。人間社会に於ける暴力は、抑圧移譲として行われることが少なくなく、暴力とはアイデンティティのための闘争と言えなくもない。優越の確保という目に見えぬが、人間が自らの生存目的とさえ捉えかねない問題が根底にあるため、当事者による抑圧移譲の構造の自覚と、それによる暴力の停止は困難である。


最近はてな界隈で話題の「働かない人間ムカつく問題」も、延々と繰り返される「非モテは理想が高いから駄目なんだよ問題」も、↑のような抑圧移譲の構造を孕んでいる。彼・彼女等の説教から、しばしばなにか憎悪のようなものが感じられる背景には、こうした心理的カニズムがある。

しかし、「抑圧移譲」しなければ自らの正当性を確保できないような人間が、はたして本当に「成熟した大人」だと言えるのだろうか?

確かに現実問題としてこの社会を生き抜いていくうえで、僕たちは自分を殺し、社会に対して「妥協」する必要に迫られる。それは必要だし、仕方のないことだと思う。しかし、その「妥協」があまりにも自らの意思とかけ離れており、「抑圧移譲」による正当化を図らなければ耐えられないようなシロモノであるならば。

僕たちはあえて「成熟」を拒否することも、時として必要なのではないだろうか。