せいぜい「地球」という狭いセカイ認識しか持てないという、現代の僕たちが持つ限界から来る幸せ
MouRa|東浩紀、桜坂洋|ギートステイト - 2045年の世界(1)
貧しい人々は、もし貧しいままでいいのだと思いさえすれば、ニューヨークでもロンドンでも東京でも、それなりに「豊か」な生活を送ることができる--少なくとも、そう思いこむことができる。むろん、そのすぐそばには、彼らよりもはるかに恵まれた人々が大量に生活しているのだが、国家の一体性が壊れているためにその姿はほとんど目に入ることがない。それが、2045年の世界である。
これはSFだけど、いい社会だなぁ。こんな社会が来たらマジでシビれる憧れるなぁ、と思った。
前にも書いたけど、劣等感というものは自分の眼に入る場所に、自分よりも恵まれた、優れた人間が居るというシチュエーションで始めて喚起されるものなので、「そのすぐそばには、彼らよりもはるかに恵まれた人々が大量に生活しているのだが、国家の一体性が壊れているためにその姿はほとんど目に入ることがない」という社会は、非常にストレスが少ない素晴らしい社会になると思う。
実際、視点を宇宙レベルまで拡げてみれば、宇宙のどこかに存在しているかも知れない超先進文明の方たちから僕たちが、「君たち地球人のいる場所は、我々はすでに3000億年以上前に通過しているッ!」とか言われちゃったりして劣等感に苦しめられずに済んでいるのは、まさにこのゾーニングが機能しているからなんですよね。現代の地球上で生きるすべての人類は、せいぜいこの「地球」という小さなセカイしか認識できないという事実によって、自尊心を守られているわけで*1。
そう考えていくと、まぁ自分の身の丈に合う程度に、セカイは適度に小さいほうが何かと幸せなんじゃないかねぇと、島宇宙化、タコツボ化が進むポストモダン大好きっ子な僕は思うのでした。問題なのは「貧困」や「格差」そのものではなく、「貧困」や「格差」が「惨めなモノ」として感じられてしまう環境のほうなのですよ。
もっともそういった社会では、下層人間の欲望が喚起される機会が少なくなり、だんだん社会全体の活力がなくなっていくと思うけど、僕としてはそういったまったり社会のほうが好み。社会なんて、20%の欲望に溢れる上昇志向の人間が馬車馬のように働いて、残り80%のぐうたら人間を食わしてくれてりゃあいいんですよ(パレートの法則の悪用!)。そして当然、俺はそういう社会では、80%のぐうたら人間のほうを選ぶぜ!だって無駄に苦労とかしたくないもん。